【貸し渋り編】不登校していた時間を取り戻す難しさ
公的資金導入は、一時的には、良いのですが、資金が途絶えた時、会社が持ち直すのか、また元の木阿弥になるかどうかというところがポイントです。
不登校の子どもの場合、公的資金は、まわりの援助や特別扱いに当たります。
これは、永遠に続かないところが難点です。
学校で先生が特別扱いしてくれることや、同級生がしてくれることには、いつか終わりが来ます。
大人は、親切ですが、子ども同士は、子どもの社会があり、ライバルでもあります。
職場でも、学生の時のようにテストの順位が出るわけではないけれど、何となく、能力によって序列のようなものを感じることがあると思います。
それと同じ事が子ども社会でもあります。
テストや運動能力、にぎやかさ、頼れる人物であるなど、子ども社会の中での力関係があり、それは大人が外からコントロールできません。
しばらくの間の特別扱いも、慣れてくると、「ずるい!自分たちもやっているんだから、同じようにしろよ」となっていきます。
だから、そうなる前、みんなが特別扱いをしてくれている間に実力をつけて、まわりと同じようにできるようになればいいのですが、学校に行くだけでもたいへんな状態で、なおかつ今以上の実力をつけるのは、どのくらい難しいか、お父さんが会社で難局に陥った時を想像してみてください。
そのときに、体力が弱っていたらどうか、人の目が気になって仕方なかったらどうかなど、気力が萎えている状態で窮地を乗り切るのは、闘争心みなぎる時とは違って、たいへん難しいものです。
不登校の子どもたちへの一時的な援助を経済に例えると、それは、まさに、貸し渋りや貸しはがしです。
親や周りの助けや刺激は、
1.本来助けるべき事と違う助けをしている=助けの質が違う(これが一番多い)
2.助けが足りない
ことが、貸し渋りや貸しはがし と同じようなことになってしまいます。
1.本来助けることと違う助けをしているというのは、一番多い例で、子どもが口から発することをすべて真に受けて、一つ一つに対処し始めると、重要であり注目しなければいけない事を見過ごし、どうでもいい枝葉の部分ばかりに目がいってしまいます。
困っている人は、本当のことはあまり口にしないものです。
ですから、本当に困っていることを、まわりがある程度察することができれば一番良いのですが、最も近くにいるお母さんは、あまりにも近過ぎて、子ども以上に敏感になってしまっていることが多く、冷静な目で見ることができません。
常に社会と向き合っているお父さんが、その社会性をいかして、子どもを客観的にみてみるとよいのではないかと思います。
2.助けが足りないことに関して、勉強を例にあげると、勉強が分からないから教室にいたたまれない子どもに、勉強を教えるのに、塾やネット学習などいろんな手段や手立てを講じるのだけれど、ゆるゆるとでは、全く追いつかないのが現状です。
同級生が6時間授業をして、さらに塾で勉強しているのに追いつこうとすれば、それ以上を必要とするものです。
他の事では、当然だとすぐに理解できることも、我が子のことであり、また焦れば焦るだけなおさら分からなくなってしまいます。
元気学園では「実力はすぐにはつかない」と口癖のように言っています。
元気学園の寮生活で、できるだけ余分な時間を排除して、必要なことに当てても、追いつき追い越すまでの道のりは遠く、その子どもにとって、実力がついた時に振り返って考えてみれば最短ではあるものの、実力がつくまでの間は、本人が一日一日を積み重ねていくしかないのです。
これは、他の人が代わることが できないものです。
周りが助けられるとしたら、子どもが実力をつけるまで努力をし続けられる環境を提供することだけ。
子どもが困っていることに対しての助けと刺激を混同してしまっている場合が多く、刺激は一時的なものですが、助けは継続的なものです。
必要なのは、十分な助けです!